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「わかる」からといって「わかっている」とは限らない

わかることはとても大切

まず、大前提として、「わかる」ということは大切なことです。わからないことがわかるようになることは、生きる上での大切な喜びの一つです。これから記載することの前提となることですので、まず最初に書いておきたいと思います。

私は日々、一講師としても、なるべく「わかる」ように、算数がわからない数字に強くなりたいというお客様と向き合っています。その中で、「わかる」とは何かと真剣に考えていますが、「わかる」からといって「わかっている」とは限らないことについてきちんとまとめておきたいと思いました。

  

「わかる」とは何か

きっと、それが「わかる」とは、何かを考えたときに、自身の辞書に照らし合わせるように言葉を捉え、自身の中の論理の使い方でその物事がつながることでしょう。

だからこそ、わかりやすさの原点としてあるのは「アナロジー」です。類推です。本来あるべきそれそのものではなく、他の物事でそれを説明しようとすることとなります。

つまり、1+1=2を納得するなら、よくこんな例え話がされることもあるでしょう。りんご1個とりんご1個を合わせたら2個であるから、1+1=2だと。

しかし、これで1+1=2の説明になっているのでしょうか。

 

「わかる」からといって「わかっている」とは限らない

こんな例を考えてみます。

茶碗1杯に盛られたご飯と、もう一つそのご飯を用意して、そのご飯を合わせたとしましょう。そうすると、その茶碗にはご飯が溢れそうになるので、一回り大きめの茶碗を持ってきて、その茶碗にご飯を入れれば、1杯のご飯となるでしょう。

つまり、1杯+1杯=1杯になるのです。あらら、と。これはおかしいでしょう。1+1=2となっていません。

他にも事例はもちろんあります。

磁石を1つ、そしてまた1つ持ってきて、その磁石をくっつけれて合わせれば、2つの磁石ではなく、たった1つの磁石のように振る舞うでしょう。

つまり、りんごの例がわかったからといって、本当に「1+1=2」がわかっているかと言えば、全くそんなことはないということです。

「わかりやすさを追求する」とはそういうことで、「1」すら抽象的です。1はりんごではなく、ミカンでも、茶碗でもないのです。しかし、抽象的なものを理解するためには、りんごという具体物に頼らなければ説明ができないということです。

もちろん、ご飯だったら「重さ」という視点で見れば、1+1=2ときっとなるでしょう。しかし、時間経過すれば、水分が抜け、少し重さも軽くなる可能性だってあります。

現実の問題をそのまま数学に当てはめようとすると、当てはめるための努力が必要です。社会や物事の構成、仕組みがどういう風になっているか、どういう計算であれば数学的にとらえてよいかを考え、選択する力が重要になってきます。

このように、わかりやすさだけを追い求めていくと、シンプルに、使われているロジックもなるべくわかりやすく表現されることがあります。

 

「すぐにわかる」なんて嘘

すぐにわからせるようなコンテンツに、今は溢れています。1冊の本をわずか3分で読めるようにまとめた、とか。数学的な理解をわずか10分で見ればわかるとか。

しかし、本来、数学的概念は、数分でわかるようなものではないと思うのです。

どうしてその言葉が選ばれたのか、その論理でなぜ説明しているのか。具体的にその根拠や、根拠にいたる過程など、一つ一つをかみしめる様に理解しなければいけないものであるとも思うのです。

自分自身が勝手につくった論理にすり替えることなく、数学そのものの論理を捉えること。それを通して「わかる」と言えるのではないかと。

 

繰り返すが、それでもわかるのは大切

もちろん、繰り返しますが、「わかる」ようになるコンテンツは極めて重要です。しかし、そのわかりやすさが必ずしも、それそのものの説明ではないケースもあると知っておくことは大切です。

つまり、「たとえ」でわかったら、数学そのものでわかるための努力も必要ということです。

コミュニケーションでも同じです。相手の言いたいことは、自分の論理にすり替えてわかるようなものでもなかったりします。相手の真意や、言葉にならない感情をどう捉えるか。そのためには、相手になりきる力だったり、相手の考え方そのものをインストールする。

“端的にわかる”を超えた先の”深い理解”の重要性について、語ってみました。

ちなみに・・・

もちろん、偉そうにここで語っていますが、私にもたくさんわからないことがあります。なんとなくふわっとしかわかっていないこともきっと多いことでしょう。そんな中でも自分の中に「わかる」ことが広がっていくことはとても幸せなことだと感じています。

<文/堀口智之>